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・東京新聞 (2001年4月26日)
ブームの火付け役 ジャズで野辺送り  喫茶店など経営、野口さん

全国に広がったジャズ喫茶ブームの火付け役として知られる野口伊織さん=東京都武蔵野市桜堤一、会社経営=が二十二日死亡し、告別式が二十六日午前、三鷹市上連雀の法専寺で行われた。告別式では、ゆかりの人たちが、ジャズの調べに乗せて野口さんを送った。五十八歳だった。
野口さんは約四十年前に吉祥寺にジャズ喫茶「麦」や「FUNKY」をオープンして人気を集め、ジャズ喫茶ブームの“草分け”の一人として有名になった。ジャズの音楽雑誌にコラムを書いたり、来日した外国ミュージシャンを店に招いて演奏会を開くなど活躍した。
吉祥寺を中心に、都内でジャズ喫茶やバーなど十六店を展開するオーナーとして活躍してきたが、昨年二月、脳腫瘍(しゅよう)を患い、今月二十二日午前九時、自宅で帰らぬ人となった。
告別式には喪主の妻満理子さんをはじめ、野口さんと交流のあった約四百人が参列。仲間のミュージシャンたちが、生前、野口さんが好きだったジャズの曲目を生演奏し、野辺送りをした。



・毎日新聞 (2001年4月26日)   
ジャズに一生をささげ 吉祥寺の“名物オヤジ”逝く
旧知の友 生演奏で送る

1960年に吉祥寺で初のジャズ喫茶「ファンキー」を開店。最盛期には20店ほどが軒を連ねた吉祥寺のジャズ喫茶ブームの火付け役となった。また、75年にはジャズ・ライブハウス「サムタイム」を開き、新人からベテランまで、数多くのアーティストたちの演奏の場となった。自らもアルトサックスを演奏し、セッションに参加しては交友を広げていった。
吉祥寺でジャズ喫茶「メグ」を経営する寺島靖国さん(61)は、「野口さんの店にあこがれた人たちが全国でジャズ喫茶を開いていった。太く短く人生を駆け抜けた。亡き後も、吉祥寺のジャズのともしびを守っていきたい」としのんだ。
出棺の際、式場には野口さんが演奏した「ジョージア・オン・マイ・マインド」が静かに流れた。妻の満理子さん(46)は「本当に楽しい人生だったと思います」と、深々と頭を下げた。参列者の三本締めと拍手に送られ、棺は式場を後にした。
店は、満理子さんが引き継ぐ。一生をジャズにささげた男の思いは消えない。




・読売新聞 (2001年5月27日)   
60年代ブームの先駆け“イオリズム”いつまでも

東京・吉祥寺に構えたジャズ喫茶「Funky(ファンキー)」は、慶応大を出た後、父が経営していた純喫茶を改装した店で、一九六〇−七〇年代に起きたジャズ喫茶ブームの先駆けになった。
地下一階、地下二階。「会話禁止」だった一階と地下では、若者たちが大音量のモダンジャズに酔いしれた。その客の一人だった作家の倉橋由美子さんは、「暗い旅」という小説で、当時の店内をこんなふうに活写している。「暗い、海獣の口中のような窖、炭酸ガスの多い空気、それを攪拌する強い振動……」
二階は、BGMにジャズを流すバーで、レコードコンサートも開かれた。ジャズ評論家の岩浪洋三さんは「コンサートの後も、一緒に朝までジャズ談義を楽しんだ。ジャズが熱かった時代でした」と振り返る。
時代の流れを察知する能力にもたけていて、ブームが去ると、ファンキーを「洋菓子カフェ」に切り替え、さらにレストランバーに衣替えさせた。ライブハウスなどにも手を広げて都内に十七店を構えるまでになっていた。
新し物好きで、「昨日より今日、今日よりあした」が口癖。生前、こんなことを書き残している。「死んだら、棺桶の片隅に記憶装置付き極小コンピューター・ステレオを置いておく。アルバムを一枚だけ記憶させておくが、飽きたらすぐさま地上に交信して、入れ替えちゃう。『おい、いま一番すごいのはなんだい?』」(「吉祥寺JAZZ物語」日本テレビ発行)
検査で脳しゅように冒されていることがわかったのは昨年春。手術後、自宅での療養中も、最期まで「きょうの売り上げは?」と店を気にかけていた。
にぎやかなことが大好きだった故人をしのび、告別式ではミュージシャンがジャズの生演奏を行って野辺送りをし、地元のみこし仲間が三本締めの音頭をとって棺をかついだ。
店の経営を引き継ぐ妻の満理子さん(47)は、「決して同じ所に立ち止まらなかった人でした。新しい店を作って、天国の彼に『やるじゃない、ちきしょう』と言わせたい」と話し、「一番すごいの」を求め続ける“イオリ(伊織)ズム”の継承を心に誓っている。




・Jazz批評No.108   
野口伊織氏の逝去をいたんで
                        対談:松坂 非呂/茂串 邦明

野口伊織氏(58歳)が脳腫瘍のため4月22日亡くなられました。
父野口清一氏が開かれた「ファンキー」を継ぎ、吉祥寺をジャズの街に発展させると共に、ジャズ界全体に元気さをもたらしてくださった野口氏の功績を長く称えてゆきたいものです。

茂串 伊織ちゃんの思いでを語りたいが、語り尽くせない男だけどね。
松坂さんは、アメリカに70年に一緒に行った仲間なんだから先に話して。

松坂 1960年代のはじめ頃、吉祥寺のジャズ喫茶店「ファンキー」の若旦那で慶応ボーイでアルト・サックス奏者という、ピカピカのハンサム青年でしたね。SJ誌編集長の岩浪さんのレコード解説会があって、レコードの棚はびっしりだし、菅野沖彦さんおすすめのオーディオが地下1階、2階と各フロアー毎にオーディオシステムが違うんだから、羨ましいほどすごかった。

茂串 俺も高校生の頃1階のJBL−D130の音の切れが好きで、学校から遠かったけど通ったよ。地下がパラゴン、2階がマッキンルームでボーカルファン向けだった。

松坂 仲代達矢ふうのすてきなお父さん(野口清一氏)が、「商売熱心でよくやってくれて嬉しいですよ」と息子をほめてね、いい親子でした。お母さんのご実家は琵琶奏者の家元だと伺ってましたが、すてきなお母さまで。
ニューポート・ジャズ祭を含めて20日間のアメリカの旅は話しきれないほど面白いことがありますが、ロスで他の3人は競馬に行くんで、私と伊織さんは元祖ディズニーランドに行ったのはいい思い出になっています。
ジャズ批評には長く広告の掲載をいただいたり、本を売っていただいたりと、ほんとにお世話になっています。古い話ですが、10号代の新譜紹介にジャズ喫茶店店主や、レコード屋さんに出ていただいたこともあって。当然、野口さんも語ってくださったこともあったせいか、後あとまでいい新譜が入ると「○○はすごいよー」とか「必ず聴いてー」と、電話をくださったんです。で、たまたまファンキーに行ったとき、兎のジャケットのハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』を新譜で並べていたところで、「将来のジャズを示唆するすべてを含んでいるレコードだよ。これはすごい」と眼を輝かせていました。
ジャズ批評がフリージャズ路線を走るのを心配して、「フリーは、本物はいいけど、亜流は絶対ダメ。自分勝手な実験中の音を客に聴かせたり、レコードにするなんて許せない」と、ジャズに対する姿勢を若いときから持っておられましたね。その後、アウトバック、サムタイム他、新店をどんどん出されるようになってから、ジャズのことを話すチャンスも無く、好青年の姿のまま私の前から消えてしまって、老けた伊織さんを見れなかったのは残念です。
茂串さんこそ人生半分以上のお付き合いでしょう。

茂串 高校生の頃から、ファンキーで伊織さんに認識されたというのかなー。19歳の頃から3年間、神保町のトニイ・レコードに勤めたんで、折からの廃盤ブームもあって、伊織さんはどんどん買ってくれてね、自宅にまで招待されたよ。それで俺は24歳の1975年8月、高田馬場に「イントロ」を開くとき、「お前はあんな廃盤を高値で売りつける商売上手な奴だから、どこでやってもうまくやれるよー」と、勇気を持たせてくれてね。7月に伊織さんは吉祥寺「サムタイム」を開店した時期でしたから、2人で店内内装のことなど相談しながら、方々の店を歩きまわりました。

松坂 サムタイムはあの当時は斬新な内装でびっくりしたものです。

茂串 そう。店舗設計・内装に関しては、専門家が彼を神様と言うほど天才でしたよ。出来上がったものでも客にとって不都合となると、すぐ壊してやり直す。金儲けではなく、今までにないオリジナルな店を作った!やった!という喜びが、大きかったんですよ。
才能に恵まれて、環境もよかったんでしょうが、ジャズ喫茶出身で17カ所まで店を増やすという事業を成し遂げたんですから、すごいです。
人間関係の融和も天才だったなあ。明るくって、廻りの人たちへの気配りのできる兄貴だったよ。それと、自宅の地階で、パーティーをしたり、コンサートをしたり、ジャズ好きを集めてのセッションにも、よく俺もドラマーとして呼ばれてね(笑)写真にも造詣が深く、ジャズメンのカレンダーを作ったり、各店のメニューを作るなど、写真とパソコンの世界にも燃えていました。趣味を仕事に活かしてしまうから、仕事も遊びも徹底していたから生きているという実感はあったと思う。

松坂 ジャズの総てを楽しめたいい意味の金持ちでしたね。

茂串 俺も、仕事も趣味も一緒になってやってたから、気が抜けてしまった感じです。幾ら話をしても尽きません。すごい男が亡くなっちまったんだってこと、今からじわじわと世間が理解しはじめるんだと思う……。
サムタイムを始め、残された店は奥さんの満理子さんを筆頭に店長たちが死ぬ気で守り抜く覚悟だから、心配はないでしょう。

松坂 ご冥福を祈りましょう。




・スゥイングジャーナル (2001年6月号)   
“ファンキー”“サムタイム”の野口伊織氏死去

4月22日、東京・吉祥寺のジャズ・スポット“ファンキー”“サムタイム”“アウトバック”のオーナー、野口伊織氏が脳腫瘍のため、なくなった。享年58歳。野口氏は父親が始めた吉祥寺初のジャズ喫茶“ファンキー”の経営に高校時代から加わり、その後、吉祥寺や都内でライブ・ハウスやバー、レストランなどを数多くオープンして成功させてきた。現在、吉祥寺にジャズ・スポットが集中し、ジャズ文化が成熟しているのは、氏の功績によるところが大きい。また自信も、慶應義塾大学時代から名アルト・サックス奏者として鳴らし、ジャズには造タ'8cwが深かった。明るく、オープンな人柄の野口氏を偲び、葬儀には数多くの参列者が訪れた。

 





・東京新聞 (2001年9月16日)   
野口伊織さんHPに記念館  ジャズ喫茶ブーム火付け役・4月に死去

全国に広がったジャズ喫茶ブームの火付け役として知られ、今年四月、五十八歳の若さでこの世を去った野口伊織さん=武蔵野市桜堤一=をしのぶインターネットのホームページ(HP)「野口伊織記念館」が、野口さんの誕生日にあたる今月一日完成した。「館長」には妻の満理子さん(四十七)が就任。「野口に永遠の命を与えていただいた」と、胸を熱くしている。

ホームページつくりの構想は、野口さんの死亡後、満理子さんと野口さんの会社関係者が会った際に浮上した。遺品となったジャズに関するさまざまな記事などを紹介したらどうかという声が高まり、野口さんの誕生日に完成を目指し準備した。作業には野口さんの知人が協力して実現した。
そのまま「野口伊織記念館」と名付け、満理子さんが「館長」に就任。幼少時の写真やゆかりのあった人からのユニークなエピソード、演奏する風景などを紹介。内容は今後も充実させる方針という。
野口さんが帰らぬ人となってから四ヶ月余り。満理子さんは「みなさんからさまざまなメッセージを頂き、今もとびきりの笑顔の野口の姿が浮かんでくる。記念館ができたことで、今も生きているような、とても幸せな気持ちでいっぱいです」と話している。
野口さんは吉祥寺を中心に、都内でジャズ喫茶やバーなど十六店を展開するオーナーとして活躍、しにせのジャズ喫茶「麦」や「FUNKY」が人気を呼んで、ジャズ喫茶ブームの“草分け”の一人として有名になった。
昨年二月脳腫瘍(しゅよう)を患い、今年四月二十二日、自宅でなくなった。四日後に行われた告別式では、野口さんが好きだったジャズの曲目を生演奏して野辺送りをし、話題になった。
記念館の問い合わせは株式会社「サムタイム」=電0422(42)3530=へ。ホームページのアドレスは、http://www.iori-n.com




・朝日新聞 (2003年3月2日)   
ぶらり吉祥寺
食に脈々 反骨隠し味  (児林もとみ さん)

「吉祥寺系」と呼ばれる料理人は、この街が大好きだ。
格式を重んじ、「成功者」が持ち上げられる銀座や、赤坂とは違う街。客の反応は素早く、店同士の競争が激しい。いいものは即座にまねされ、さらにうまい味が生み出され追い越される。
この底流にあるのが「イオリズム」。野口伊織さんが残した飲食店経営の「思想」を表現した言葉だ。
01年4月に脳腫瘍で死去した。享年58。早すぎる死を悼み、同年秋の祭りでは、遺影を納めた神輿が街を練り歩いた。
「食は吉祥寺にあり」といわれる伝統を築いた人物。「食の空間作り」にのめり込み、音楽、光、色、デザインのセンスをすべて傾けた。「カリスマ」だった。
経営した店は吉祥寺を中心に30以上。「同じ店を何件作ってもおもしろくない」が持論。内装がれんが壁のジャズのライブハウス、井の頭公園に面した和食の店は、ほの暗い間接照明で陰影を付け、豊かな緑に溶け込ませた。
妻の満理子さん(48)は、「動物的な勘はすごかった。変えることをおそれない男でした」。新しく、かつ面白いものを求める生き方が「イオリズム」の真骨頂だった。
JR吉祥寺駅前の洋食「西洋乞食」の料理長・中井俊樹さん(42)は「コロッケをやれ」と命じられた。試行錯誤の末に具材にサケを選び、小さなおむすび型のコロッケを作った。クリームソースにサケとご飯を混ぜ、コクがあるのに、あっさりとした味で、今も店の定番だ。
中井さんは近く、シェフ仲間でロックバンドを結成する。リードギターとボーカル担当で、プロを目指したこともある。反骨精神がロックの源流。個性ある料理を作り続ける料理人の気持ちの奥底にはロックの血が流れている。
割った竹筒の上で焼く豚肉ハンバーグ、フォアグラをシイタケで挟んだ天ぷら……。
吉祥寺系は創作料理が売り物だ。野口さんが始めた飲食店を一括経営する「麦・サムタイムグループ」のレストラン部を総括する長内雄介さん(37)はこう言う。
「求められたのは『自分風』だった」
 
カフェ人気 武蔵野市などによると、JR吉祥寺駅周辺の飲食店は約700店。武蔵野商工会議所によると、古くからの店が減少してカフェなど若者向けチェーン店が増加しているという。「麦・サムタイムグループ」はジャズバーやレストラン、和食店、洋菓子店など計18店鋪を経営する。



・読売新聞 (2003年3月4日)   
駅の物語
ジャズ喫茶が「街」生んだ!?  (小泉 公平 さん)

秩父から切り出した木材を運んでいた甲武鉄道が、現在の中央線の前身だ。荻窪-境(現在の武蔵境)駅間に当時、駅はなく、一八九九年(明治三十二年)、吉祥寺村民の新駅設置促進運動によって吉祥寺駅が誕生した。都民のベッドタウンとなり人口が増加。それに伴い乗降客数も右肩上がりとなり、現在は一日約二十八万人が利用する。大手デパートなどの商業施設や文化施設が整い、吉祥寺は若者たちの街となった。

吉祥寺を「町」から「街」へと変えた男と言われた野口伊織さんが、この世を去ってまもなく二年となる。
ジャズプレーヤーで実業家の野口さんが、吉祥寺駅前に地上二階地下一階のジャズ喫茶「ファンキー」を開店させたのは一九六六年のことだった。今のように性能がいいステレオが普及していない時代。吉祥寺に初めて誕生したジャズ喫茶は私語厳禁で、音を聞く姿勢を重視した。このスタイルは若者の心をとらえ、全国に広がったジャズ喫茶ブームの火付け役とも言われた。
七五年には、映画「ウエストサイドストーリー」をヒントに、ライブハウス「サムタイム」を作った。多くのミュージシャンに演奏の場を提供し、自らもアルトサックスを演奏した。吉祥寺を名実ともに「ジャズの街」に変えた。
野口さんはジャズの分野だけに収まりきれず、自らがデザインを手がけた、おしゃれな居酒屋、ケーキ店、ジャズバーやレストランバーなど次々と吉祥寺に店を出し、アッという間に十六店のオーナーとなった。
野口さんとジャズ喫茶黄金時代を築き、吉祥寺のジャズ喫茶のオーナーでジャズ評論家の寺島靖国さんは、野口さんを「おれはジャズに生きている。あんたはジャズで生きる」と批判したことがある。だが、野口さんは「ジャズの実業家で何が悪い」と開き直った。
野口さんの妻、満理子さん(48)は、「店作りが趣味のような人だった」という。寝るときでも枕元にメモ帳を置いて、アイデアが浮かんだら、夜中でも起きてデッサンを描いていた。
ひとつ店を作り終えると、次は全く雰囲気の違う店を作る。作っては内装をひんぱんに変える。まるで吉祥寺という街をキャンバスにして、納得行くまで油絵を描く画家のようだった。知人から「なぜ次から次へと違う店を作ったり、改装したりするんだ」と聞かれても、笑っていただけだったという。

野口さんが、吉祥寺にやってきたのは一九五九年。銀座で喫茶店を経営していた父親が体調を崩し、「空気のいいところに住もう」と家族で引っ越してきた。野口さんは当時、慶応義塾高二年。都会育ちの青年は駅から見た街の風景を「ゴミゴミして田舎臭い町だ」と漏らした。
ところが、次々と出店していくうちに、「吉祥寺はいろいろな表情のある街。自分は見る目がなかった」と愛着を持つようになったという。自分の手で大きく変えられる可能性のある街。そう感じたのかもしれない。
野口さんの事業拡大とともに、吉祥寺は高級住宅地として人気を集めるようになり、夜には若者が集まる活気のある街となった。
実は野口さんの店十六のうち、十五店が入口を駅に向けている。吉祥寺を楽しむためにやってくる若者たちのエネルギーを吸収したい。そして活気ある店にしたい。そういう願いが込められている。
満理子さんは最近、商店街の人たちや雑誌の編集者から「野口さんなくして今の吉祥寺の発展は考えられない」という話をよく聞く。だけど、満理子さんはそうは思わない。「本人は街づくりを意識していたわけではないんです。時代のニーズをかぎ分け、経営に生かしたんです」。実業家としての成功が、吉祥寺を変える力となった。
きょうも吉祥寺駅を降り、若者たちが野口さんの店にやってくる。




・日本経済新聞 (2003年5月24日)   
みなみらんぼうのスローライフ
古いアンプ 青春をもう一度 (みなみらんぼう さん)

壊れた古いアンプがある。二十五年近く前に東京・吉祥寺のジャズ喫茶店主のN氏に譲り受けたものだ。高級海外製アンプで、いつもオーディオ店で眺めるだけのものだった。それが二十万円。格安だったが、僕は清水の舞台から飛び降りる気分を味わいながら買った。
買ってしばらくして調子が悪くなった。オーバーホールに出したら店主が「らんぼうさん、すごいヘビースモーカーなんだね。中がたばこのヤニでベトベトだよ」と笑った。
僕はたばこを吸わないので、何のことかと思ったが、そういえば僕のところにくるまでは、ジャズ喫茶で営業していたアンプだった。
それから二十年近くトラブルもなく現役を続けた。長女が生まれたばかりのころ、ボリュームを最大限に回したので、スイッチを入れた途端に爆弾が落ちたみたいな音がしたこともあった。それでも壊れなかった。
二年前にN氏が突然、脳腫瘍(しゅよう)で他界した。店の経営は順調で、アルトサックスを吹き、ジョギングをこなし、最近は山登りを始めたということだったから、そのうち一緒にと話していた矢先の死だった。
彼が亡くなってある夜、古いアンプを引っ張り出して灯を入れた。スタン・ゲッツをかけると、風邪を引いて元気のないような音が出た。しばらく使っていないと、音に潤いがなくなるのだ。しかし、ブルーのイルミネーションを眺めているだけで、思い出が走馬灯のように巡った。このアンプは青春を鳴らすことができる、数少ないアンプだ。
二度目にスイッチを入れたら、ブスッ!という音とともに灯が消えた。どうやら寿命を迎えた。N氏の元に帰ったのだろうか。しかし、捨てきれずに、元の棚に戻した。
先日、N氏の奥様から、三回忌のお知らせとともに、一枚のCDが送られてきた。若きN氏のジャズ演奏と地元FM出演時のインタビューが納められていた。僕はふとひらめいてオーディオ店に電話した。あの古いアンプは修理できるか?
と聞くと「大丈夫直りますよ、任せてください」との返事だった。




・読売新聞 (2003年7月27日)   
喝采
  SOMETIME  舞台・客席 同じ目線で (保井 隆之 さん)

すり減った階段を下りて扉を開くと、アメリカの裏街の酒場に迷い込んだような錯覚に陥った。
打ち放しの天井に走る鉄骨、レンガの壁、アンティークの数々。極めつけは、カウンターそばの壁に記された落書き「GROOVY」−。
レッド・ガーランド・トリオの名盤『GROOVY』のジャケットを、そのまま再現しているのだ。ジャズファンの心をくすぐる仕掛けに、思わずにやりとさせられた。

吉祥寺に「Funky」を構え、ジャズ喫茶ブームの火付け役として知られる野口伊織(1942-2001)が、ライブハウス「SOMETIME」を手がけたのは、1975年だった。
妻の満理子(49)が振り返る。「お気に入りのシカゴの街並みと、映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の雰囲気。頭の中に、明確なコンセプトが出来上がっていたそうです」
野口のスケッチを基に工事は始まったが、広さ約百十平方メートルに及ぶ店を図面なしに築くのは不可能。そこで設計に加わったのが、福井英晴(60)だった。
野口は、一段高いステージを設けると主張した。しかし、福井は、頑として反対した。
「ジャズは、客とコミュニケーションを取りながら即興を繰り広げていく音楽。だったら、演奏者と客の間に隔たりはいらないはず」
結果として、平地のステージを、一段高い客席が囲む構造にした。ミュージシャンと客の目線の高さは、あくまでも同じ。これこそがSOMETIMEの最大の特徴となった。
ジャズ評論家の岩波洋三(70)は、「SOMETIMEの開店により、ジャズの拠点は新宿から吉祥寺へと移りました」とその意義を強調する。

「料金が安いから、学生も気軽に入れる。ジャズファン限定の店舗でもありません」。店長の宇根祐子(39)はそう話す。
九六年、ジャズシーンに一石を投じるライブが行われた。人気絶頂にあったピアニスト大西順子(36)が提唱した「ジャズ・ワークショップ」。若手が集まり、半年以上に及ぶ貸しスタジオのセッションで作り上げたオリジナル曲を発表する。演奏が評判を呼んで急きょレコーディングが決まり、翌年、アルバム『THE SEXTET』が誕生したのだった。
「若者が多いので反応が速い。だから実験的なこともやりやすい。順子とそう意見が一致した」。今は一線を退いた大西の気持ちを、ドラマーの原大力(44)が代弁する。
おしゃれで、温かい。決して敷居は高くない。この地の雰囲気を凝縮したような空間。そこに、”吉祥寺を町から町へ変えた”と言われる野口の、深い思いを感じずにはいられない。
(敬称略)

 
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