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追悼文集 (KMP)

野口伊織とKMP  室井 泰正(トランペット・40年卒 同期生)

野口伊織は昭和36年4月、慶応高校から慶応義塾大学に進学するが、大学1年生の夏、高校時代に在籍していた「応援指導部」ブラスバンドの一年先輩立見さんの勧めで、高校時代のバンド仲間であり親友でもあった松野正孝などと共にKMPというジャズバンド部に運命的な入部を果たすことになる。
ここでは、彼のその後の人生に大きく影響を与えたKMPとの関わりについて、大学4年間を通じて関係深かった当時の先輩や仲間、後輩などとのエピソードを含め、当時の歴史をふり返りながら、その「運命的出会い」を探ってみたい。

【 第一章 KMPの黎明期 】

KMPとは? 

KMPは、慶応義塾大学・文化団体連盟(大学が公認する学生による課外文化活動集団)(通称「文連」)に加盟するアコーディオン・クラブの中の5部門(シャンソン・タンゴ・クラシック・セミクラシック・ジャズ)のうち、ジャズ部門のメンバーが昭和36年春に独立し、ジャズ演奏を追求するため新たに創設した団体の名称で、Keio Music Players―という、いとも単純な名前に由来する。この設立メンバーは前年の昭和35年入学組の吉田・尾藤・佐藤・中島・行田の5氏である。
ただしその昭和35年に、新入生メンバーだった佐藤・尾藤・中島(他に安斉・是永氏等が在籍)氏に加え、同年夏までに吉田・行田氏が加入し、秋の三田祭参加を果たしており、何とあの慶応義塾の伝統的なジャズ・バンド「ライト・ミュージック・ソサイエティー」の演奏のあとに、このKMPの前身「アコーディオン・クラブ・ジャズ部門」は、三田の518号教室に登場、観客の「大歓声!」というにはかなり遠い、「失笑」を買うという事件を既に巻き起こしていた。恥を忍んで当日の演奏曲目をご披露しよう。
・・「月影のキューバ」・・さぶー!< ←当代の現代用語辞典参照のこと 
(その悔しさと伝統の負けじ魂、加えて、己を知らぬ鼻息の荒さが翌年の脱会の背景にあったのか。はたまた、後に野口も嵌ったKMP伝統の誇大妄想的文化が既にあったのか。)

野口伊織の参加(昭和36年夏)―KMPとの運命的出会いー

昭和36年4月、独立したマイナー集団のKMPにとって最初の試練は、ジャズ演奏経験
のある部員の確保であった。(当時はまだ経験者も少なく、楽器を持っていない部員さえいるという状況であった)オリエンテーションの結果、30名程度の入部希望者があったものの、最後に残ったのはたったの2名(渡邊―第2代の代表と佐合―テナーサックス)。
ところが、ここで大活躍するのが初代代表の吉田 碩さんであり、その中で何といっても圧巻が、その後のKMPを、現役時代は初代音楽責任者(コンサート・マスター…通称「コン・マス」)として、また卒業後も現役・OBの纏め役として今日まで導いたKMPの恩人、立見正弘さん、そして立見さんが半ば強引に引き込んだ野口伊織であった。そして現役時代、立見さんから2代目「コン・マス」を引き継いだ野口は、卒業後も我が子のようにKMPを思い、愛し、支え続けたのである。
これは二人にとって、そして今は亡き野口伊織にとっては、一生をかけたドラマの第2幕(第1幕が慶応高校時代とすれば)の幕開けであり、またKMP・・昭和36年から数えて平成13年で41周年を迎え、そしてその間、数え切れないほど多くの仲間や、感動を生み出した集団・・にとっても、まさに運命の出会いとしか言いようがない。吉田さんとこの二人無かりせばKMPの今日のサウンドは育たなかったし、それ以前に部活動として存続できなかったであろうことは間違いないのである。
思えばKMPにとって昭和36年(KMP元年)は、この二人の参加によって波に乗り、吉田さんを中心とした懸命な努力の結果、河北・加々尾・小堀・酒向さんなどの先輩諸氏や、同年秋の奥沢・室井(1年生)の入部もあり、部活動が本格始動する年とになった。

KMPの離陸(テーク・オフ)−ニューサウンド・オーケストラの誕生―

昭和36年秋、第1回KMP定期演奏会⇒翌37年春の慶応「山中湖山荘」合宿(ここで
バンド名として「ニューサウンド・オーケストラ」が決定)を経て、昭和37・38年度と40名以上の大量の新入部員を確保し、38年夏に栃木県那須温泉「童話荘」で本格的な全体合宿、その後栃木県大田原市において、KBR(タンゴ・アンサンブル)を迎えた、KMP初の地方コンサートを開催、1,600人の聴衆を魅了する。そして、この前後に、当年の渡邊代表が,本格的な司会専任部員として、伊丹賢太郎(卒業後NHKアナウンサーに)を引き入れ、音楽レベルの向上とともに、ステージ演出面での充実が図られることになった。
かくして同年10月には、悲願の、また粘り勝ちというべき「文連」への正式加盟を実現、名実ともに慶応大学を代表する第二のジャズ(+ラテン)・オーケストラとして産声をあげた。これを受けて早速対外的PR活動を積極化させ、翌昭和39年春休みには、既に初の演奏旅行に出る。考えて見れば、当時はまだ無名に近いKMPを招聘した各地の三田会(慶応OB会)にとって、それは大変な決断であったろうと思われたが、いざ蓋をあけてみれば結果は大成功、無事3週間の全行程をこなすことができた。
この頃から、KMPニューサウンド・オーケストラへの出演依頼が増加し、野口を含め、小編成コンボの活動も活発化し、KMPの第一期黄金時代を迎えることになったのだ。


初めての演奏旅行など・・
  
■ 当時、KMPニューサウンド・オーケストラは、まだデユーク・エリントン、カウント・べイシー、それにペレス・プラードなど、ジャズやラテンのポピュラー・ナンバーを中心に曲目を編成(クインシーやニ−ル・へフテイ−にたどりつくのはそのちょっと後)、その中でもリード・アルトサックス野口のソロは、会場の隅々まで響きわたる・・特に女性聴衆の心臓の奥まで突き刺すような・・甘く透明な音色(オーバーに言えば・・但し、後日届くファン・レターの数の多さとその熱い文面からみて、それはどうやら否定しきれない <もちろん他のソロ・プレーヤーにもファン・レターは来てましたよ・・外野の声>)、および立見コン・マスが醸し出す(曲によっては)見事なハーモニー、
 そして軽快な伊丹の司会はやはり当時の売り物であった。

■第1回の演奏旅行日程(昭和39年3月)
    月  日    開 催 地      出 演 ・ 競 演 グループ    
  3月12日(木) 静岡県静岡市   KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
                     (ゲスト)武井義明(ボーカル)
  3月14日(土) 愛媛県松山市   KMP(単独) 
  3月17日(火) 高知県高知市   KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
  3月20日(金) 広島県呉市    KMP・KBR(パールアイランダース)
                    早稲田大学ニューオルリンズ
  3月22日(日) 鹿児島県鹿児島市 KMP・KBR(モダンシャックス)
  3月24日(火) 佐賀県武雄市   KMP・KBR(モダンシャックス)
  3月25日(水) 福岡県博多市   最初あったが、出発直前に中止
  3月26日(木) 島根県松江市   KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
  3月31日(火) 兵庫県神戸市   KMP・KBR(タンゴ・カルア)

■この初旅行のハイライトは、“参加者にしか分からない”「マック一味」と「チキン同盟」の生死をかけた(豆鉄砲による)一騎打ち。ついに佐賀県武雄駅構内では、真夜中の一騎打ちにたまらず駅員が出動・・(駅員)「一体何事ですか?」・・(KMP)「ごめんなさい」。(当時はまだ学生運動華やかな時代であったのである。そして、以来KMPにおけるサックス隊とラッパ隊の対決が続いており、双方にとって切磋琢磨の肥やしになった。)

■ 当時のKMP語録(排他的―実は一般常識の世界では通用しない)の例・・
―「なにせ(ペット/サックス)とはつきあえね−」
―「ゴグアグー!」、「デダ−!」、「ナニセ、ゴギゲン!」(なぜか福島弁)
―「エッ? エッ? エ−ッ?・・ヤバーーイ」、また「アーッ!」(鳥=チキンの声)
■KMP処世訓(昭和39年制作の会報第1号より)
−KMPはよく人をイビる。そしてイビられた者だけが残れる。
―月末には生活を賭けて上級生と(特に3年生)マージャンをせよ。絶対に勝てる。
―最初の合宿で先輩からつけられるニックネームを喜んで受け入れよ。一生モンだ。  
―合宿には必ず参加し、夜の各種ゼミにも絶対参加すること。対応を間違えると必ず
 夜の「布団蒸し」、または翌日の「ウサギとび」が待っていると思え。
―先輩を徹底してオダテよ。必ずオゴッてもらえるか、言うことを聞いてくれる。
  
いずれをとっても、なぜかそこに、しっかり野口伊織の存在感が感じられるのである。


【 第二章 思い出の数々 】
               
今回、高校時代を含め、彼と大学卒業を共に過ごしたKMPの仲間から、その人となりを知る上で貴重なエピソードや写真などがたくさん届いた。中にはこの際、どうしても一言いっておかねば・・というものもあり、厳選した上で、そのいくつかをご紹介し、おくる言葉とさせて頂きたい。




小川 理子(大阪在住・ピアノ/ボーカル・昭和61年卒・松下電器産業勤務)

数年前のこと、「関西KMPの集まりがあるので来ない?」と、今一緒にOBバンドで演奏させて頂いている澤崎至先輩からお誘いがあって、偶然に参加させて頂いたのが、野口先輩との最初で最後の出会いでした。
KMP関西OB会(前述)の確か二次会からのゲスト参加ということで、諸先輩方と一緒に演奏させて頂き、そのときのドラムは澤崎さん、サックスが野口さんと吉田さんでした。吉田さんとは今も、澤崎さんがリーダーのKOPS(Keio Old Persons Superband)でご一緒させて頂いています。
その日、演奏が終わると野口さんはご自分の隣に私が座れる席を空けてくださいました。一寸日焼けした男性的なお顔、おしゃれなチェーン付きの眼鏡の奥で微笑まれている優しそうな目がとても印象的で、横に座らせて頂いただけで、ものすごくときめいて嬉しかったのを鮮明に覚えています。
「東京出張の時はいつでも連絡してね。」と、ご連絡先を教えて頂いたので、その後私が東京出張する機会があった折、出張の数日前にご連絡し、お会いできるのを本当に楽しみにしていたのですが、何という運命の悪戯か、出張前日に、熱と吐き気と右横腹に異常な痛みがあり、検査の結果「卵巣嚢腫」と診断され、当然出張は中止、お電話で「風邪の高熱で東京に行けなくなりました。」とお伝えするのが精一杯でした。その後、ずっとお会いできる機会がなく、年賀状のやり取りを続けさせて頂きました。
野口さんがご病気というお話は吉田さんからもお聞きしておりましたし、もう一度お元気な野口さんにお会いしたい、という思いで、ご回復をお祈りしておりました。
天国にいらっしゃる野口さん、野口さんが青春時代を過ごされたKMPのご縁で、今私は,素晴らしいKMPの先輩方と一緒にバンドを組んでジャズを楽しんでおります。このバンド仲間といると、いつも野口さんのことが話題になります。ただ一度きりの出会いでしたが、私の心の引出しにはずっと、あの日のトキメキが大切にしまわれています。




川瀬 一雄(目黒区在住・トランペット・42年卒・会社経営)

 私と野口さんとの出会いは慶応高校時代、応援指導部ブラスバンドの時です。私が高1で入部、そこで行進曲をジャズ風にアドリブしてしまう野口さんの演奏を聞き、これは野口さんと同じ楽器(当時はクラリネットを吹いていた)では勝負にならぬ、と私はトランペットを吹き始めたのを思い出します。入部してすぐ、慶応高校野球部が奇しくも甲子園出場を決め、わがブラスバンドも応援に行った時のことです。当時ブラスバンドでは珍しくマーチではなくラテンの「闘牛士のマンボ」を演奏し、次の日の新聞に「さすがハイカラなKOボーイの演奏」と評され皆で喜びました。私にとっては、初めて野口さんと、それも甲子園球場という広い場所で競演できたのは今でも忘れられられません。単にマーチだけでなく、こんな曲を応援に用いられたのも野口さんのセンスのお陰でした。
ここで大事なエピソード・・甲子園で慶応の中心選手は当時豪腕でならした渡辺投手で、野口さんと同じ3年生。この渡辺投手が卒業の時、単位が足りなかったのに、学校側は早く大学で彼に投げさせたかったので、彼をパスさせ、卒業させた。そして当時ビリの成績を競っていた野口さんは、この渡辺投手のお陰で一緒に卒業できた・・という話は当時逸話のような、本当の話。(編集部コメント: いま遠く、上の方から「バーカ、川瀬、そんなこと天下の慶応がするわけネーダロー!」という野口らしき怒りの声を確認。・・この話信じるか否かは、読者の皆様の「感性」にお任せする)
音楽その他の感性に恵まれた野口さんも、さすがに学業との両立には人知れぬご苦労があったのでしょう。その後、野口さんの大学時代、KMPニューサウンド・オーケストラでの花形プレーヤぶり、また社会に出てから、お父上の事業をここまで伸ばした野口さんを見ていると、学校の成績なんかより、その人本人の持つ感性、人間性がいかに人生で大切かをつくづく感じます。このような野口さんと、高校・大学時代とずっと同じ時代に居られたことを、私は誇りに思うと同時に、大変懐かしく思う次第です。天国の素敵なジャズクラブで、「おい!川瀬、もっと感性を磨けよ!!」と野口先輩がわめいて、がなりまくっているのが聞こえてくるようです。




澤崎 至(大阪市在住・ドラムス・昭和46年卒・(株)湯川家具勤務)

 野口さんに初めて会ったのは、昭和43年の夏、当時学生ジャズのメッカだった渋谷の「オスカー」にKMPのコンボで出演した時です。当時のリードアルト、山口真文さんが出られなくなって、急遽野口さんにエキストラをお願いしたのです。野口さんがドラムに非常にうるさい人だ、という話を聞いていただけに緊張しまくり、ついていくのに必死でしたが、その流麗なプレーに「すごい先輩」という印象が残っています。
その後。下北沢に住んでいた関係で時々「ファンキー」に行きましたが、野口さんは私を見つけると、私の席の伝票をサッと取り、「これはいいからな」とよく言って頂きました。貧乏学生の私には申し訳ないような、でもとても嬉しく有り難い気持ちになり甘えさせて頂いたものです。
野口さんに最後に会ったのは、平成10年KMP関西OB会「ALL KMP」第1回目の集まりでした。北新地のジャズバー「ヌーボー」に約40名が参加し盛り上がりましたが、このとき久しぶり(30年ぶり)に野口さんのアルトサックスを聴いたのです。最近演奏再開されたとは聞いていたのですが、伝説の人野口さんの復活ぶりには、はるかな後輩諸君を含め、全員感激したのを覚えています。結局OB会は大成功、又やろうなと握手してお別れしたのが最後となりました。 いつもダンデイ―で、一寸恥ずかしがり屋で、すごく真剣な野口さんの思い出は何時までも消えることはありません。(ALL KMP関西会長)




高木 真一(米国ニュージャージー在住・トランペット・39年卒・米国ソニー社長)

 私の記憶も大分怪しくなっているが、学生時代のジャズバンドで、色々パーティーやコンサートなど、楽しく活躍した日々は今でも時々思い出している。野口は、ご存知の通りアルトサックスでエネルギッシュに吹きまくっていたが、コードが時々いい加減なので、よく文句を言ったのを覚えている。彼は常に一種独特の雰囲気を持った男だった。ある時は、私のレコード・コレクションと彼のコレクションを色々交換したりしたが、彼のイメージは「吉祥寺のジャズ喫茶、全ての意味で」という感じだった。また、昔に戻ってジャムセッションでもやろうと考えていたのに、残念至極である。




野口伊織さんと かの先輩  バンド仲間の一人 立見 正弘

 

「高校・大学の先輩がたった半年上で威張りくさるんだよね。いい人なんだけども。・・(中略)・・・高校の時に部室で「すずかけの道」とか真似して、アドリブでチョロチョロジャズを吹いていたら、その先輩にポカーンと殴られて、『おめー、譜面もよめないくせにジャズなんか吹くな!』っていわれた。・・・・・・・・・・・・・」と野口さんが吉祥寺のホームページの“趣味の世界”の一文に記した先輩とは私のことです。
1958年4月、野口さん高校1年生、私2年生、二人ともクラリネット吹き。ここから永いお付き合いが始まりました。大学ではジャズバンドで(KMP紹介の欄をご参照ください)、1999年には野口さんの最後のジャズバンド(杉並サニーサウンズ)でもご一緒させていただきました。40年を越すお付き合いをいただいた私にとって、最大の財産と思っています。色々教えても頂きました。
“メグ”の宿敵寺島さんとの言い合いでおなじみの“商売としてのジャズをシリアス路線から脱却”に決意し(実際に悩んでいました)名店『サムタイム』を始めた頃、『JAZZへの係わり方は人によって、時代によって違うように、物事すべて人によって係わり方が違うので、そこをいつも考えなきゃいけないよ』と諭されたのが一番印象的です。これからは野口さんの分も私の力として頑張って人生を送ろうと思います。
想い出その@「行進曲 “星条旗よ永遠なれ”でのアドリブ!!」
野口さんとは高校のブラスバンドの部室で休み時間毎に二人でクラリネットを吹いていました(むしろ休み時間の合間に授業を受けていたので二人とも勉強の成績はいまいち)。
私が譜面大好き人間で彼は譜面大嫌い人間で、次から次ぎの曲へと(行進曲・序曲・組曲等の吹奏楽曲)初見で私が吹くと野口さんはオブリガートやフェーク(ジャズ演奏の一種)ですぐに合いの手を吹くという毎日でした。野口さんはアドリブが上達し、私は初見がきくようになり、二人の音楽に関する技能の進む道はこの時期決定的になりました。
ある練習の時、マーチ王スーザの名曲“星条旗よ永遠なれ”で野口さんは曲の途中でアドリブを吹いてしまい、当時のブラスバンドの指導顧問(元NHK交響楽団のホルン奏者)に「こら」と一喝、頭を叩かれたことがありました。ホームページの私にポカーンと殴られてのくだりは、野口さんの記憶違いではないかと思います。確かに野口さんにとっては私は怖い先輩であったことは認めますが。

想い出その1「“結婚したのはどの女だ” 祝電!!」
野口さん最初の結婚式の時、私は所用で出席できませんでしたので、祝電を送りました。
『結婚したのはどの女だ』
ほんのジョークのつもりが、さー大変。新婚旅行から帰ってきたら直ぐに奥様に弁明するようにせまられました。本当にどれほどモテていたのかは知りませんでした。私は見た事がないので友人に聞くとかなりだったそうですが、真相は・・・・?。

想い出その2「“野口のアドリブはグロテスクだ”が天才を努力家に変身?」
高校時代から天性で縦横無尽のアドリブ奏者になっていましたが、コンボ仲間の伝説上
の名トランペッター高木さんにそう言われて奮起一転。蔭では相当練習していたと聞いています。メロディアスな高木さんとハーモニィアスな野口さんの嗜好の違いではないかと言っても本人はずっと永い間気にかけていました。最近高木さんに聞いたところやはり『スタイルの違い』と言ってました。1999年サニーサウンズで阿佐ヶ谷JAZZストリートに出演したとき、G・ベンソンのON BROADWAYで前奏部分のソロで『ニューヨークの朝のけだるい雰囲気を出して』とお願いしたら、それほどの舞台ではなかったのですがまじめに取り組んで演じてくれました。そしてその年の暮れに野口さんの最後のビッグバンドの演奏になってしまいました、サニーサウンズ会長のお嬢
さんの結婚披露宴でスタンド・バイ・ミーのソロを頼んだらアドリブはお手の物なのに
、後日彼のパソコンをのぞいて判った事ですが不慣れなポピュラー音楽に、アドリブ練
習プログラムを使って研究していたことが判り感銘しました。

想い出その3「ユー・アー・マイ・サンシャイン 満理子さん」
野口さんの満里子さんとの結婚披露宴では、バンド仲間で演奏もしましたが、締めの曲
として依頼された「ユー・アー・マイ・サンシャイン」を来賓の方々の歌とともに演奏
しました。年貢の納め時でしょうか満理子さんにはぞっこんで、あまり自慢話をしない
野口さんが満理子さんの自慢をしていましたので、最近気が付いたのですが「ユー・アー・ マイ・サンシャイン」とは満理子さんのことだったのですね。我々バンド仲間にとっては、野口さん自体が「ユー・アー・アワー・サンシャイン」としていつまでも記憶に残る事と思います。

想い出その4「ジャズの“出前”演奏」
パソコンに伴奏させてジャズ演奏を楽しんでいました(自前のコンボと言ってました)。
親交の深いニュースキャスターの『安藤優子さんの誕生日パーティーに急に呼ばれて演奏して欲しいと言われて弱ったよ。ヒデーナー。パソコン持っていって一人で演奏してきたよ』。なんとジャズの“出前”演奏を始めました。『ヒデーナー』と言う時は、いつも本音は嬉しいときの野口さん流の表現でした。

想い出その5「“センチメンタル ジャーニー”の約束」
入院する直前ですが(入院するとは知らされていませんでした)、『65才になったら
ニューヨーク・ニューオルリンズのジャズスポットを案内するよ。仲間でいこうよ。とりまとめたのむよ』と言っていましたが叶わぬ夢になってしまいました。悲しくて仕方がありません。でも最近一部の仲間に話したら、『是非行こう』と言うことになり、きりの良い『2005年に野口さんを偲んでセンチメンタルジャーニー』をということになりました。

野口さんはいつまでも我々の心の中に生き続けていくことでしょう。




中島 正夫(鹿児島市在住・アルトサックス・39年卒・会社経営

 何といっても参加してくれて有り難かった人物だ。出会いは、三田の中等部前に駐車していた吉田君の車の中にキョトンと座り、顔を判別しようにも、そのニキビが視界を遮り、目だけは対象物をランランと見つめ、手を差しのべるとほっそりした手が我が掌中におさまり、“よろしく!”と言うと、大分恐縮した、半分は迷惑そうな顔をして“ハッ!”の一言。握手をして、相手の掌中を<コチョコチョ>くすぐる、あの悪癖はまだこの頃はなく、ましてや合宿における、あの数々の奇行を全く想像させぬ、全く純情そのものの青年でありました。




細谷 泰央(大田区在住・トランペット・41年卒・会社経営)

この話には前編がある、まずはこちらからどうぞ:HP編集者注)

―この事件は、これによってアクは抜けず、ニキビだけがすっきり取れた野口が,その後、益々モテ男になったと言うことで、二重の問題伝説として語り継がれることになったが、この一件の共謀者の一人、細谷泰央も、この事件をを次のように印象的に語る。


「ともかくもあの時は、私が町の薬屋に下剤を買いに行きました。、それを細かく砕き、ビールに混ぜたのですが、それを野口さんは、こともなく(良く見れば一寸濁っていたんですけど)一気に飲み干したのです。やー、帰りの電車での真っ青な野口さんの顔、鮮明に覚えていますョ。まー、最も親しかった、同級の松野さんだから出来たことですけど。」




松野 正孝(藤沢市在住・テナーサックス・40年卒・医学博士・病院経営)

 野口伊織とは慶応高校の頃知り合い、KMPニューサウンド・オーケストラで、奴が1stアルト、私が2ndテナーと、共に卒業まで同席した間柄。野口伊織は、大学時代の渾名が「チンパ」。武蔵野の原野に生息する珍しい種族のチンパンジーという意味で、奴は猿の顔真似が得意。この渾名を自身、気に入っている様子であった。因みにこの「チンパ」、パンチ良く、パッとよく出す自慢のちんのチン、すぐ脱ぐ「ツンパ」の「パ」からの意味もある。(訳注:音楽業界では、モノゴトを逆にいうクセがある。<おんな>は<なおん>であり、かの有名な<森田さん>は<タモリさん>である。ご賢察の程を)
「猿丸」とか、「金の猿」の店名の由来はこれから来たのかは不明だが、考えられる。
大学3年の時のKMP夏季合宿が那須高原であったが、その最後の日、納会の夜は恒例のハチャメチャ飲み会である。数人の仲間と一緒に、野口のビールに、奴のアクの強さを少し落とすのと、アルトサックスの音が良くなることを願って、「下剤」を入れた。(というのは、その前の野口伊織実行犯の「奴のおしっこ入りビール」<これを皆に飲ませれば、KMPの音楽レベル・アップに繋がるとの持論>に対抗して)それも、「頑固な便秘にも3錠まで」というところを「6錠」飲ませたのだ。
しばらくして心配になって、「おい、野口、お前下剤入りビール飲んだんだぞ!」と言うと、「ダーイジョーブ! オレの胃腸はバンバンに丈夫だからナ」との応え。しかし結果は、帰京する上野駅までの電車のトイレは奴が占領していた。
後日、奴は「お前のお陰で顔のニキビが、すっかり良くなったョ。このことをオフクロに話したら、あらまあヨカッタハネ−。面白いことされたはネー、だってサ」と、母子ともに大物ぶり。それ以来、私が医者になってからも奴は私を医療に関しては全く信用しなくなった。
「野口伊織」は、私にとって、楽しかった青春と同義語であり、喜怒“享楽”的友情、まだまだ続くはずの同好・同志の、なじり合い、ケンカ、いたずらと、玉石混淆的「戦友」を失ったことは残念無念の極致であります。

―この事件は、これによってアクは抜けず、ニキビだけがすっきり取れた野口が,その後、益々モテ男になったと言うことで、二重の問題伝説として語り継がれることになったが、この一件の共謀者の一人、細谷泰央も、この事件をを次のように印象的に語る




山口 真文(横浜在住・アルトサックス・44年卒・ジャズサックス奏者)

 昭和40年の春、KMPに入部したばかりの頃でした。全体練習が行われていた三田の大教室に少し早く着くと、そこでは先輩達がコンボでセッションをしていました。九州の片田舎から出てきたばかりの僕にとって、初めて聴く生のモダンジャズでした。その中でひときは輝く音を出していたのが、卒業したばかりの野口伊織さんでした。その時のある一つのフレーズがしっかりと耳に残り、「ジャズっていいなぁ」と思い始めた頃、渋谷百軒店にあったDIGでレコードを聴いていたら、ソニー・ロリンズが<On A Slow Boat To China>で伊織さんのあのフレーズを吹いていました。




野口伊織君へのトリビュート  吉田 碩(芦屋市在住・ドラムス・39年卒・会社経営)

 君との付き合いは、昭和36年の春、初めて会ってから病に倒れるまで40年になる。
特に卒業してからは、同業(飲食業)でもあり、私が(卒業後)アルトサックスに転向したこともあって、特に親しく付き合えた。ともに酒を飲み、人生を語らい、かつ、女性を想い、(勿論想っただけでないのは諸兄姉も良くご存知のところである。)幾度昂然としたことか・・しかしそれも今となっては夢の中、思い出の海に漂う空しさなのだろうか。
嗚呼、君が逝くのが余りにも早過ぎた。神は時として、残酷なことをなさる。いや、神が必要としておられるからこそ早くに召されたのか。そう納得しければ、やりきれない想いに支配される。ともあれこれからは、君はご遺族の、そして我々の心の中に生き続ける・・永遠に・・永遠に・・。




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